【ダシマス老舗・浅野産業】代々新しいもの好きの性質が会社を作ってきた。7代目が取り組む新しい挑戦

レッド

written by ダシマス編集部

創業100年以上の老舗企業に焦点を当てる本企画。持続的な成長と成功をおさめ、時代をまたぎ社会に貢献してきた歴史を紐解き、その長い期間によって培われた文化や知見から、多くの人に気づきとインスピレーションを与えることを目指しています。

岡山エリアから紹介するのは全部で5社。本記事では明治元年の創業以来150年以上、エネルギー事業に取り組み、地域の皆さまの生活を支えてこられた浅野産業株式会社(以下:浅野産業)の代表取締役社長である浅野哲志(あさの さとし)さんにご登場いただきます。

LPガスに軸足を置きつつ、新しい事業にも果敢に挑戦したいと考える浅野社長。150年以上の老舗企業の代表を務める社長の思考を紐解き、その視線の先に描く未来像まで伺いました。

代表取締役社長 浅野哲志(あさの さとし)さん

代表取締役社長 浅野哲志(あさの さとし)さん

大学卒業後、浅野産業株式会社にて働き始めるも2003年に一度退職し、ハウスクリーニングとリフォームを生業とする会社を設立。約13年経営した後、2017年に浅野産業へ復職。2022年6月に同社の社長に就任。

取材:大久保 崇

取材:大久保 崇

『ダシマス』ディレクター。2020年10月フリーランスのライターとして独立。2023年1月に法人化し合同会社たかしおを設立。“社会を変えうる事業を加速させ、世の中に貢献する”をミッションとし、採用広報やサービス導入事例など、企業の記事コンテンツの制作を支援する。

執筆:川又瑛菜(えなり かんな)

執筆:川又瑛菜(えなり かんな)

フリーライター。求人広告代理店や採用担当などHR領域の経験を活かし、企業へのインタビュー記事や採用広報記事、イベントレポートを中心に執筆している。フランスでの生活を目指してフランス語を勉強中。読書と人文学が好き。

自分が7代目になるなんて考えていなかった

 

――まず、創業してから現在までの歴史を教えてください。

浅野産業は、明治元年に創業しました。当時の当主・浅野栄三郎が薪炭商をはじめたのがきっかけです。​​浅野家はそれ以前にも商売をしていたようで、創業前は塩も売っていましたし、ジャンルにこだわらず、とにかく売れるものを売っていたと記録に残っています。そのなかで、燃料がこれから来るのではないかと考えた栄三郎が、燃料部門を独立させて会社としたそうです。

そこから昭和の前期までは炭・薪・練炭を販売していました。LPガスが登場した昭和30年頃から、LPガスとの併売を開始。昭和40年頃からほぼLPガス一本になります。その後はLPガスの販売を柱としつつ、リフォーム事業や食品事業・不動産事業などにも挑戦してきて今に至ります。

そんななか、私は7代目として、2022年6月社長に就任しました。

 

――代表となることは小さい頃から意識されていたのでしょうか。

私は次男なので、代表になるなんて考えていませんでした。兄と仕事のことで揉めたくもなかったですし、浅野産業で働くつもりすらなかったんです。

それに私が大学を卒業する頃は、父・父のすぐ下の弟・五男(前社長)・兄とすでに親族が4人いたんです。そのなかで5人目として私が入っても、これだけ上が詰まっていたら社長になれることはないだろうと思って。

実際に大学卒業をするときにも、別の企業に内定をいただいていて、そのままサラリーマンになる予定でした。父にも「親族があまりたくさんいるのも良くないのでは」と進言してOKをもらっていたんですが、結局「やっぱり戻ってこい」と言われて浅野産業で働くことになりました。

でも私自身は、建築関係や最先端のITに関する仕事に就きたいと考えていたので、あまり前向きな気持ちではなかったんですよね。他社での就職を諦めきれず、こっそり転職活動をしたこともありました。結局父にバレて、その時は烈火の如く怒られましたよ(笑)。その時、兄に「自分を助けると思って残ってくれ」と言われて、最終的に浅野産業で腰を据えて働く覚悟を決めました。

 

 

――そこからどのような経緯で代表になることとなったのでしょう。

1995年に父が亡くなり、2001年には兄も亡くなってしまったんです。兄は46歳という若さでした。入社したときに私を含めて5人いた親族は、前社長である叔父と私の2人になっていました。そうなると、もう自分が代表になることが現実味を帯びてきて。でもその前に自分の力を試したいと考えて、2003年に浅野産業を退職したんです。

綺麗好きだった母の影響か、昔から掃除が好きな方だったので、ハウスクリーニングとリフォームをする会社を立ち上げました。とはいえ、軌道に乗るまでの3年くらいは食べていけない状態でしたね。でも無事に軌道に乗せることができ、最終的に13年ほど続きました。軌道に乗ってからも社員は4人と小さい会社ではありましたが、非常に充実した日々でした。

そんななか、角藤田(株式会社角藤田)が浅野産業の傘下となることが決まり、叔父に陣頭指揮を頼まれたんです。一度退職して迷惑をかけたのにそうして頼ってくれたことがうれしかったこともあり、2017年に浅野産業に戻ることにしました。私が行っていたハウスクリーニングとリフォーム事業そのものは、角藤田のなかに残っています。そこから数年経ち叔父も引退することとなり、私が代表に就任しました。

 

LPガスに軸足を置きつつ、新しい事業にも果敢に挑戦したい

 

――社会では、脱炭素などエネルギー変革の流れが起きています。現在の主力事業であるLPガスについて、どのように考えられていますか。

電動化やEVの流れが強くなっていますが、EVを作るために二酸化炭素がたくさん出るという面もあります。かといって電気を否定したいわけでなく、何かひとつのエネルギーに偏りすぎずに、バランスよくエネルギーを使ったほうが環境負荷が少なくなるのではないかと個人的には考えています。

そのなかで、LPガスの良さをもっと国や社会に対して働きかけたいという想いもあります。実は、LPガスは化石燃料ではあるものの、炭素が入っている燃料の中で圧倒的に二酸化炭素の排出量が少ないんです。同じ体積でもLNG(液化天然ガス)の倍の発熱量があり、コストパフォーマンスのいい燃料でもあります。供給に関しても、中東などの政情不安定になりがちな国ではなくアメリカの供給が増えてきて、安定的に手に入れやすくなってきました。

一方、国はLNG寄りなんですね。LNGはいろいろと優遇していますが、LPガスには支援が少ない。それだけでなく、LPガス車を作る際に必要な認可のハードルが高くなりました。その影響か、ヨーロッパや韓国ではLPガスを使った車が普及していますが、日本では減少の一途をたどっています。昔はヤマト運輸もLPトラックを使っていましたが現在は使用していません。今使っているのは、タクシー会社くらいではないでしょうか。それに伴って、LPガススタンドも最盛期に比べて半減しています。

相対的に炭素排出量が少ないLPガスの活用がもっと進んでほしい気持ちはありますが、こうした状況なので、LPガスにも取り組みつつ他の商売の屋台骨も太らせなければなりません。食品事業もその一環です。そのほかに注目しているのが木です。というのも、浅野産業は木から始まっています。ここで原点に立ち返り、木を昔の使い方以外でも使えないかと考えて、林業や木に関する勉強や取り組みをしているところです。

 

 

――エネルギー関連事業を軸に、本当にさまざまなことに挑戦されていますよね。

人の役に立ちそうな商売・商材は常にアンテナ高くリサーチしています。これは私だけでなく、浅野産業の代表全員の特徴なんです。歴史を振り返ってみても、一世風靡したものには早く取り掛かっています。

ボウリングが流行していた時期にはボウリング場の経営をしていたこともありました。私が小さい頃にも、2〜3社が集まってコンピューターの処理センターを作ったり、会社の敷地内に併設されていたガソリンスタンドで車が動く洗車機を提供したりしていました。その洗車機は、先々代である父がドイツから取り寄せたもので、洗車する人が増える年末には500mくらい行列ができたこともありましたね。

そんな様子を見て育ったので、新しいもの好きの家系であることは小さい頃から誇りに感じていました。LPガスも一番手ではなかったものの、早い段階で挑戦していましたし、中四国で最初に大きいタンクを据えました。岡山県内に、タクシーにLPガスを充填するスタンドをいち早く取り入れたからこそ、岡山シェアNo.1の浅野産業があるのだと思います。

 

理想は、風が常に流れる会社

 

――これから浅野産業をどのような組織にしていきたいですか。

社員が意見を活発に発信し、その意見が反映される企業にしていきたいです。

それは、経営者がワンマンで商材やサービスを選ぶよりも、社員の声を吸い上げ、それを吟味して決定していくほうが生き残りやすいと考えているためです。特に私のような年長の経営者の場合、どうしても頭が固くなってきてしまっています。若い人の方が、今の流行りもよくわかっていますし、彼らの意見を積極的に取り入れていきたいです。「LPガス以外に何が儲かると思う?」とフラットに意見を聞けるような会社が理想的ですね。

また、求められる社長像も変わってきていると思います。昭和では威厳のある人、平成では統率力のある人に、従業員はついていっていました。しかし、令和では違います。令和に人を率いるのは、共感を集められる人だと思います。そのため私も代表としての想いを積極的に発信していき、社員に共感してもらえる代表でありたいと考えています。

 

――こうした浅野社長のビジョンに対して、社員はどのような反応を示していますか。

キーマンたちはどんなスタンスを取ればいいかまだ戸惑っているような感じですね。月一回で課長以上を集めて各部署の業務報告会をしていますが、その挨拶の場でジョークを言っても笑ってくれないんですよ(笑)。「今の笑うところだけど…」とこちらが言うとやっと笑ってくれるような感じで。今までの社風は、社長が何かを言った時に笑うのはNGな空気感だったので、そうなるのは無理もないなと思ってはいるんですけどね。

そういった社風だったので、意見を言いづらいこともあったと思います。今は少しずつ、参画意識を高めているところです。有名な刑事ドラマで「事件は会議室で起こっていない、現場で起きているんだ」という名台詞がありますが、私たちの仕事でも同じように現場が大事。だからこそ、現場から積極的に発信してもらえるとうれしいなと思いますし、そんな組織を作らなければならないと考えています。上からも下からも風が起きて、風が常に流れているような会社にしたいですね。

 

とはいえ、まだまだキーマンが戸惑っていることからわかるように、社風は一朝一夕に変わりません。また悪い面だけでなく、生真面目な社員がいてくれて助かっている面もあります。そのいいところを残しつつも、もっと伸び伸びしてもらいたいです。時間がかかることではあるので、長い目で見てやっていこうと思います。

 

 

――最後に読者に対して、メッセージをお願いします。

私が人生において大切にしていることを3つお伝えできればと思います。

ひとつは、昨日よりも少しでも進んでいることを大事にすること。完璧を目指すと、疲れたり挫折したりしてしまいます。特に今の若い人は短時間で結果を出そうとする人が多くて、それが挫折やストレスにつながるのではないかと思います。大事なのは結果ではなく、自分を高めようとする営み。それが成長や自分への信頼になっていくはずです。

ふたつ目は、人には遠慮なくお世話になることです。何か助けがいるときは、どっぷりお世話になりましょう。そして、自分がその恩を返せるタイミングが来たら倍にして返せばいいのです。一人で抱え込みすぎて、倒れることのないようにしてください。

3つ目は、父が亡くなった時にある方から言われた「お父さんが亡くなったことを必然だと思って考えなさい」という言葉です。それを言われた時はよくわからなかったものの、今となっては非常に腹落ちしています。何があっても、「これは必然であり、自分のための試練だ」と思うと腹が立たないし、逃げることなく受け入れて立ち向かえます。また私が大切にしている言葉に「置かれた場所で咲きなさい」というものがあります。この言葉のように、自分に与えられた場所を必然だと受け止め、そこで頑張ることで、きっと良い未来が開けると思います。

 

 

浅野産業の詳細・採用情報はこちらから

◆HP https://www.asano-sangyou.co.jp/

◆求人情報 https://www.asano-sangyou.co.jp/recruit/

 

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