「麺好きな仲間と、ともに遺産を残したい」㈱戸田久4代目継承者の本音

レッド

written by 田野百萌佳

「北緯40度の麺匠」というキャッチコピーのもと、岩手県で製麺業を営む株式会社戸田久。赤いパッケージの『もりおか冷麺』は、岩手県内のスーパーではお馴染みの商品です。そんな戸田久の代表取締役・戸田有恒(とだ ゆうこう)さんへ会社経営にかける想いをインタビュー。商品・組織づくりへの葛藤やこだわりを、本音で語っていただきました。麺好き必見の内容です!

代表取締役 戸田有恒さん

代表取締役 戸田有恒さん

㈱戸田久4代目代表。1982年生。岩手県出身。2010年、東京の会社で営業職としてキャリアをスタートさせたのち、2014年に戸田久へ入社。2年半後に退職し、ラーメン屋店主や不動産営業を経験。2021年に戸田久へ再入社。2023年、代表取締役に就任。子どもの頃からラーメンが好きで、休日には県外の行列店を巡ることもある。中華麺は断トツちぢれ麺派。座右の銘は、上杉鷹山の名言「為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」。

受け継がれる、「良いものを作ろう」という精神


 

─1948年創業という歴史ある戸田久ですが、創業から今に至るまで受け継がれていることはありますか?

ものづくりへのこだわりですかね。元々、戸田家はリンゴ農家だったと聞いています。創業者は曽祖父の戸田久兵衛で、当社の社名は久兵衛の「久」をとって名付けられました。実際に麺を手がけ始めたのは、2代目社長である祖父の代から。祖父は蕎麦にこだわりのある人で、自ら蕎麦を挽いたり、蕎麦屋を営んだりしていたようです。「良いものを作ろう」という精神は代々受け継がれてきたのではないかと思います。

──ご自身が戸田久を継ぐまでの経緯を教えてください。

社会人になって最初の4年間は、東京の会社で営業をしていました。その後戸田久に入社しましたが、実は入社2年半後に一度退職していまして。それからラーメン屋を開業したのですが、調理に夢中で経営面はなおざりにしていた結果、すぐに閉店。ほぼ無一文の状態で不動産営業に転職しました。ですが2021年、3代目社長を務めていた父が亡くなり、後継者として戸田久へ戻ることになりました。

──いつかは戻る覚悟があったのでしょうか。

正直、全くなかったんです。それこそ不動産業で独立しようかと考えていたくらい。不動産のように単価が高い商材を売れるようになれば、営業マンとして「どこでも生きていける」と思っていました。

とはいえ戸田久の社内には後継者がおらず、このままだと会社が消滅してしまう。そのような中、戸田久の工場前に立ってみると、子どものころから慣れ親しんできた思い出が蘇ってくるんですよね。「お前がここを継ぐんだぞ」と言われて育ったことを思い出し、寂しい気持ちが込み上げてきて。「自分が継ぐしかない」と覚悟を決めました。

 

日常の食卓に、代わりの利かない存在感を

 

 

──会社を継ぎ、どのようなことに重きをおいてきたのでしょうか。

商品・技術・組織など、さまざまな面でイノベーションを起こそうと思ってきました。会社へ戻ってきたものの、何もせずに経営者を名乗るのは恥ずかしいと常に思っているんですよ。でも一度外に出たからこそ客観的な視点で会社を見つめ直すと、変えてはいけないこともあると実感しましたね。

──変えてはいけないこと、とは?

「お客様の近くにあり続けること」です。私たちの商品は、スーパーへ行けばいつでも手に取れて、無理のない価格で購入でき、好きな時に好きなように調理して食べられます。「一生に一度の特別な体験」とはいきませんが、「価格の割に美味しい商品」の提供を通じて日常を元気にする。そんなものづくりをしてきたことが、戸田久の最も大切な価値だと考えています。常に日常の食卓をイメージすることは、今後も変えるつもりはありません。

──戸田久の商品が、「日常の食卓」にもたらすのはどんなことだと考えますか?

食事って、1日の活力を生み出す時間であり、くつろぎの時間でもありますよね。そんな時間をもたらす要素として、味はもちろん「いつもの」安心感も必要不可欠だと思っています。先代の頃から長年認知度を積み上げてきた、赤いパッケージの『もりおか冷麺』がその最たる例。新商品も一目で「同じシリーズだ」とわかるよう、パッケージを統一することが多いです。

──「北緯40度の麺匠」というキャッチコピーには、どんな想いが込められているのでしょうか。

これは冷麺を販売し始めた1980年頃から使っていたのかな。厳密に言うと当社を構える岩手県盛岡市は北緯39.5度上に位置するのですが、北緯40度線上にはニューヨークや北京、マドリードなど世界的な都市が並んでいるんですね。「そこに追い着こう」という先代の考えで、このキャッチコピーになったと聞いています。

またこれは私の考えですが、「北国」と言えば北海道を想起される方がほとんどですよね。でも「北緯40度」だと、岩手らしさ、東北らしさをアピールできるんです。

──岩手県のメーカーとして、商品をつくるうえで心掛けていることはありますか?

看板商品の「もりおか冷麺」にとどまらず、岩手県産小麦を積極的に活用した商品づくりをしているんです。私は本来、麺づくりにおいて「小麦のポテンシャルを最大限引き出すこと」が一番の理想だと考えています。

昔ある会社が開発した「蒸練(じょうれん)製法」という製麺方法があります。原料を蒸して餅のような状態にしたものを麺状に切る製法。元々、蒸練製法ではデンプンを入れなければ麺が作れないという固定観念がありました。ただ本当にそうなのか検証してみると、なんと小麦100%でも作れちゃったんですね。この製法では加熱処理がなされ、菌が繁殖しにくく日持ちも良くなるんです。

その第1弾として作ったのが『北のうどん』。大げさかもしれませんが、地道な技術革新の結果生まれた商品なんですよ。このように独自のノウハウを活かして、新しい商品もどんどん作っていきたいですね。

──小麦の名産地だからこそのこだわりですね!近年、飲食店も展開されていますが、その背景にはどのような意図があるのでしょう?

実店舗を持つと、お客様に直接「こんな味付けでもっと美味しくアレンジできます」と提案できるじゃないですか。ホームページでも積極的にレシピを発信していますが、まだ伝えきれていない食べ方は山ほどあるんです。

また純粋に、お客様が戸田久についてどう感じているのかを知りたいんですよね。お客様の声を拾って潜在的なニーズを見つけ、それに応える商品を生み出すサイクルを作りたいんです。

──変えない部分を持ちつつ、進化しているのですね。

はい。何より大事なのは、代わりの利かないメーカーであり続けること。当社にしかできないことにこだわり、絶対的な存在感を持つメーカーを目指したいと思っています。
 

10年後も生き残る商品を、戸田久ファンとつくりたい

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──社長ご自身が「これだけは譲れない!」というこだわりはありますか?

自分が食べたくないものは絶対に商品化しないこと。食べたいと思えないものを提供してお金をいただくのは、あり得ないことです。ただ、私の好みでも他の誰かに「美味しくない」と思われるかもしれませんよね。正直私だって「親父が作った冷麺、美味しくないな」と思うことがありましたから(笑)。それから私は独身なのでリアルな「家庭の食卓」の味がどんなものなのか、完璧には分からないんですよ。なので10年後、20年後も生き残っていく商品づくりには、私だけではなく社員の声も必要なんです。

​​──「自分1人ではなく、社員と一緒に譲れないこだわりをカタチにしていきたい」という想いがあるのですね。

中には「自分の考えについて来い」という経営者もいますよね。でも、それだけで経営者と社員が同じ方向を向くことはないと、私は思います。当たり前ですが、社員も1人ひとり考えを持った人間じゃないですか。お互いにコミュニケーションを取り、自分のことを信頼してもらって初めて、進む方向が一緒になっていくのだと思います。

──社長と同じ熱量で、商品にこだわる仲間がいると良いですよね。

そう。麺好きにもっと入社してほしいんです。当社のファンに来てもらえたら最高ですね。

「この製品が大好きだからもっと広めたい」「この製品を作りたい」という人を増やしたいんです。そのような動機で、より広い地域から麺好きが集まる会社を目指したい。もっと夢があって、働く人が元気だから業績が上がる、そんな会社を作りたいんです。

──夢のある会社とは、具体的にはどんな会社ですか?

シンプルに、成長を感じられる会社ですね。高い給料を約束するのは難しいですが、家を買えるくらいの生活基盤は作りたい。だから賞与はしっかり出します。経営者の身としても、賞与を出すのって気持ちが良いんですよ。みんなで頑張って業績を上げて、その報酬を分配する。そういう流れが理想ですよね。

また実は近々、社員食堂を改装する計画が進んでいます。お店みたいなキッチンを作っちゃおうと考えているんです。そこで当社の製品を使ったメニューを食べ放題にしようかな、と。
 

目指すは年商100億円。自分で人生をやりきりたい


 

──会社を経営するうえで「これだけは成し遂げたい」と思うことはありますか?

戸田久を私の代で年商100億円のグループ企業にしたい。その過程で、戸田久の商品が「岩手県の名産品」として全国のスーパーに並んでいる状態を作りたいですね。国内で後継者や営業担当者がいなくて困っている会社と提携しながら、グループとして大きくなれればと思っています。それを達成できれば、安心して次の代に会社を引き継ぐことができます。

そうやって、ちゃんと自分で人生をやりきりたいですね。

──「自分で人生をやりきる」とはどういうことか、最後に教えてください。

「人生においての遺産」を残すことですかね。私が戸田久の経営者になったのは、創業一家の長男に生まれたからですが、将来的には「自分でこの人生を選んだんだ」と言えるようになりたいんです。そのために、自分の死後も世の中の役に立つ何かを残せたら、この人生に納得できると思っています。

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