山陽新聞社の現役記者が語る現場のリアル――厳しい環境を乗り越えてきた福本記者の本音

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written by ダシマス編集部

1879(明治12)年に創刊して以来、岡山エリアで活躍する人や企業の応援や地域権力の監視役を担い、地域の基幹メディアとして貢献してきた株式会社山陽新聞社(以下:山陽新聞社)。

「地域とともに」を基本理念に掲げ、新聞発行以外にも地域のイベント運営や、学校園や企業への出前授業、地域を元気にするための取り組みを進める「吉備の環(わ)プロジェクト」や人材支援サービスなど幅広く展開しています。

実は、岡山県での大型イベントの大部分を同社が担っているそう。文化、スポーツ、まちおこしに至るまで、新聞社が幅広いイベントを展開・運営しているとは意外に思われるかもしれません。

そんな同社ですが、やはり新聞社といえば一番気になる部門は編集局ではないでしょうか。ということで、今回は現役記者の福本 尚純(ふくもと なおよし)さんに取材し、記者という仕事のリアル、現場で働く者の本音を赤裸々に語っていただきました。

編集局報道本部運動部記者 福本 尚純(ふくもと なおよし)さん

編集局報道本部運動部記者 福本 尚純(ふくもと なおよし)さん

中学3年の3学期から親元を離れ、サッカーJ1サンフレッチェ広島ユースに所属。立命大卒業後は地元のJ2ファジアーノ岡山で3年プレーしたのち、入社した。新見支局、編集局報道部などを経て、現在は運動部。報道部時代には、優れた働きをした記者に贈られる編集局長賞を3度受賞している。帰宅後の洗濯が日課で、休日は息抜きも兼ね、小学生の息子が習う野球の練習に付き合っている。

執筆:大久保 崇

執筆:大久保 崇

『ダシマス』ディレクター。2020年10月フリーランスのライターとして独立。2023年1月に法人化し合同会社たかしおを設立。“社会を変えうる事業を加速させ、世の中に貢献する”をミッションとし、採用広報やサービス導入事例など、企業の記事コンテンツの制作を支援する。

プロサッカー選手から記者への転身。知らない世界に飛び込んでみたら……

 

――まずはこれまでのご経歴、山陽新聞社さんに入社されるまでのことを教えてください。

山陽新聞社に入社するまでは、サッカー一筋の人生を送っていました。

サッカーを始めたのは小学1年生で、ちょうどJリーグが開幕した頃。当時は三浦知良選手などに憧れてサッカーにのめり込みました。中学3年生の時には、サンフレッチェ広島ユースの一員となり、周りが受験勉強に励む中、僕は朝から晩までサッカー漬けの日々を送っていました。大学卒業後は地元のファジアーノ岡山でプロサッカー選手に。3年間プレーした後、現役を引退しました。

引退の理由はけがの問題もありましたが、このタイミングで人生の次のステップに進むべきだと考えたからです。サッカーが嫌いになったわけではなく、これまでの経験を生かしながら、地元岡山の地で新しいチャレンジがしたいという気持ちが強くなりました。そして山陽新聞社に入社しました。

入社して丸10年(取材:2024年6月)になるのですが、1~2年目は現在の報道部社会班(旧社会部)、3~5年目は県北部の新見支局に赴任、6~7年目は再び社会班に戻り、8年目から運動部に異動して今に至ります。

 

――なぜ新聞記者になろうと思ったのでしょうか。

新聞記者という職業は、自分が触れたことのない世界の人たちがいる場所だと感じていました。この世界に飛び込んだら何もできないかもしれないけれど、新しい自分が見つかるかもしれないと思って。そんな思いから、山陽新聞社1社に絞ってエントリーシートを提出しました。

 

――1社に絞っての就職活動、無事入社できてよかったですね。

面接では「本当に大丈夫なのか」「うちを落ちたらどうするんだ」など言われました。僕は「落ちたらその時考えます」と開き直るような回答をしていたと思います(笑)。そんな潔さが功を奏したのか、最終面接まで進み、無事に合格できました。

 

 

――実際、ご自身のまったく知らない世界に入ってみて、最初はどのように感じましたか。

まず社会班に配属されたので主に事件・事故を担当する記者になったのですが、最初の1週間で面食らいましたね。1週間のうち3日、深夜の火災現場に呼び出されたんです。しかもそのうちの1日は1晩に2カ所をはしご。妻に「とんでもない所に入ってしまった」と話したことを覚えています。

 

――記者になると最初の配属は社会班と決まっているのでしょうか。

一概には言えませんが、僕が入社した10年前は新人記者の多くが報道部の社会班か政治班に配属されていました。編集局内でも規模が大きく、幅広い業務をこなす報道部では、必要な要素から描く「逆三角形」の記事スタイルなど記者としての基本を学べると思います。

僕自身も、振り返ってみれば殺人現場や暴力団抗争などにも向かった社会班、現役市長の事故死から突入した保守分裂のクリスマス選挙を取材した地方支局での経験は非常に貴重なものだったと感じています。社会で起きている物事を俯瞰的に捉える力が養われましたし、政治や予算の流れなど、世の中の仕組みについての理解も深まりました。

また、災害の取材などを通して、人の生死に直結する現場の空気に触れる機会も多くありました。被災者の心に寄り添うにはどうすればいいのか、ただ「取材させてください」と言葉を発するだけでは相手の心は開かれない。そういった点についても数多くの学びがあったと感じています。

 

記者は個々に動き、まるで個人事業主のような働き方をする

――新聞社の組織体制はどうなっているのでしょうか。

編集局の中に報道本部という組織があり、その中でいくつかの部に分かれています。僕がいる運動部の他には経済部や文化部などがあります。それぞれの部署に所属する記者たちが担当分野の取材先を受け持ち、日々、取材活動を行っています。

 

〈出典:山陽新聞社組織図

 

――福本さんが所属する運動部は、日々どのような流れで動かれているのでしょうか。

運動部は個人の裁量に任された部分が非常に大きいです。担当競技のスケジュールに合わせて動くことになるので、ある種フリーランスに近い働き方と言えるかもしれません。

例えばつい先日、僕は静岡県の伊豆まで取材に行きました。パリ五輪の自転車トラック競技代表に選ばれた岡山出身の選手二人の記者会見があったからです。朝8時の新幹線に乗って行ったのですが、その日のうちに原稿を書き上げなければならないので、現地の三島駅で終電ギリギリまで作業をし、何とか締め切りに間に合わせました。

平日は執筆のみで取材がない日もありますが、土日の大会本番は駆け回ることも珍しくありません。前日に現地入りして選手の直前インタビューを行い、大会当日は試合終了後すぐに選手の話を聞いて、時には移動中に原稿を書き上げるといったスケジュールになることもあります。

 

――他の部はまた違った動き方をされるのでしょうか。

部や班によって若干違いますね。例えば社会班だと、基本的に担当の持ち場があり、警察本部や警察署に設けられた記者クラブを起点に動きます。定期的に開かれる定例会見があれば出席しますし、大きな事件事故が発生すれば休日でも駆けつけることがあります。

職場や選んでいる勤務帯によって異なりますが、日中は外回りで、夕方ごろから記事を書く人が多いですね。

 

――記者の皆さんは1日で何件取材をするのですか。

1日1件が基本ですね。ただ状況によっては1件だけでは足りないこともあるので、2、3件回ることもあります。現地に行くだけでなく、電話取材で済む場合もありますよ。

 

 

――取材に臨む際の心構えを教えてください。

何より大切なのは事前の下調べです。取材相手がどんな人物なのか、その人の生い立ちなどをできる限り調べ上げ、頭に叩き込んでおきます。ゼロから全てを聞き出すのは難しいので、自分が興味を持った部分、相手もきっと語ってくれるだろうと思われる部分を中心に質問していきます。

そうした会話の中で、自分が知らなかった面白いエピソードが飛び出してくることがあります。そういう時は、そこを深掘りしていくようにしています。こうした深堀りをするためにも、情報のインプットがポイントになるので事前の準備が必要ですね。

 

――福本さんは取材と執筆、どちらをしている時が楽しいですか。

取材をしている時が一番楽しいです。

僕は学生時代からずっとサッカー漬けの毎日だったので、サッカー関係者とのやり取りだけが人間関係の全てでした。だから今は取材を通して、色んな人の考え方や思いを聞けるのが本当に面白いです。

 

話を聞くだけでも過酷さが伝わってきた現場のリアル

 

――記者1年目、2年目の頃など、まだ不慣れだった時の苦労話などはありますか。

苦労の思い出しかないですね(笑)。話し出すと切りが無いのですが、社会班にいた頃、警察とのやり取りは本当に大変でしたよ。先方はもちろん情報を出したがらない。でも先輩には「すぐ連絡が取れる人は?」「本音で話してくれる人は?」と、とにかくコネクションの数を強く求められました。

これが運動部なら、「先生、ちょっと携帯番号教えてください」とお願いすれば比較的すんなりコネクションができます。スポーツ記事は、基本的にポジティブなものが多いですからね。

対して社会班は行政や警察といった権力側を相手にしなければならず、情報源とのコネクションを作るのが非常に難しいんです。あの頃が一番きつかったですね。

 

 

――それは聞いただけでも大変そう……。

他にも、「県警本部の席次表はどうか」とか「誰と誰の仲がいいのか」とか、とにかく宿題が次から次へと出されるんですよ。そんな情報を調べて報告しろと。

表舞台で発表される情報というのは、誰が聞いても入手できるようなものばかりです。でも社会班に求められるのは独自のネタ。世間や他社が知らないようなネタを取ってくることが、とにかく重視されていました。

夜な夜な警察官の自宅を訪ねたり、官舎を張り込んだり。また、なんとか自宅を見つけて意を決してインターホンを鳴らしたら、ご家族の方が出てきてものすごく嫌そうな顔をされたこともありました。

1回の張り込みで必ず何かネタが取れるなんてことは到底ありません。100回やって1回取材できるかどうか、そんな無駄なことの連続でした。でもそんなことを続けるうちに、少しずつ相手との人間関係が築かれ、情報が入るようになっていったんです。

そして最初は全く書けなかった独自ネタが、徐々に自分の力で書けるようになる。先輩記者が知らないことを僕の方から情報提供できるようにもなり、認められていったのは僕にとって大きな経験でした。

 

――数々の苦労を乗り越えてきた福本さんが考える良い記者とは。

端的に言えば、読者に分かりやすい記事が書ける人だと思います。そのために必要なのは、徹底した取材と、信頼に足る情報源の確保ですね。

 

新聞社の役目は「地域の応援団」と「権力の監視」

 

――社会における新聞記者、新聞社の役割をどのように考えていますか。

新聞をはじめとするメディアの役割は、様々な分野で頑張っている人たちの応援と権力の監視にあると僕は考えています。

応援に関しては地方紙だからこそ書ける原稿があることです。所属する運動部の視点から話すと、例えば、ソフトボールの男子は非五輪種目で全国紙では取り上げられる機会は少ないですが、岡山は小学生から社会人まで日本一の実績があります。試合などを記事化することでマイナー競技にもスポットが当たり、選手のやる気にもつながっていると聞いています。

権力者が暴走してしまうと国民の生活が脅かされてしまうので監視役は必要です。

実際の事例として、2022年に僕が手がけた「ベトナム人技能実習生への暴行問題の報道」があります。この記事がきっかけとなり、国会でも技能実習制度の在り方が問われるようになり、法務大臣が謝罪する事態に発展しました。今では制度の抜本的な見直しに向けた議論が本格化し、改正法も成立しました。

こうした一連の動きを見ると、メディアによる問題提起が社会を動かす大きな力になり得ることを実感させられます。もちろん、これはベトナム人実習生の問題に限った話ではありません。さまざまな人権侵害や不正の告発は、これまでも数多くのメディアによってなされてきました。こうした報道が積み重なることで、社会に変化をもたらしてきたのだと思います。

 

――権力の監視が大事なのはその通りだと思います。ただ今はメディア以上に、SNSを活用した一般人の監視や発言も存在感を増しているように感じるのですが、福本さんはどのように感じますか。

確かにSNSの普及によって、誰もが情報の発信者となりました。その情報の早さと量では、新聞などの伝統メディアは太刀打ちできない面があるのは事実です。

ですが、情報の質や信頼性という点ではメディアの強みは揺るぎないと思っています。メディアが発信する情報は、常に裏取りを重ねて何重ものフィルターをかけ、事実のみを正確に伝えています。だからこそ、情報資料として残せる価値があるんです。メディアの報道は、一過性のものに終わらず歴史の一コマとして残っていきます。

また、僕たちのような地方新聞社は、全国紙や大手メディアが手を付けない地域の課題を掘り起こし、解決に導くことができる存在です。行政の監視はもちろん、地場産業の活性化や、地域文化の継承など、地域の発展のために様々な側面からアプローチできます。地方の応援団としての顔と、痛い所を衝く批判精神。その両面を持ち合わせていることが、地方紙の存在意義だと考えています。

 

一緒に“究極の暇人”やってみませんか?

 

――新聞記者を志す人へどのようなメッセージを伝えたいですか。

ちょっと話が変わるかもしれませんが、他社も含め、新聞社に入ってくる若手で、数年で辞めてしまう人が増えているように感じています。今の時代、一度入社したら定年まで働くような昔の考え方は通用しませんから、それ自体は別に構わないと思います。でも、本当に入社したかった人が不合格になっているかもしれない中で、簡単に「きついから辞めます」というのは違うような気がします。

お伝えしてきたように、新聞記者という仕事は厳しい職場環境の中で働きます。その一方で、読者からの反響などうれしいことだってあります。だから、少し頑張れば達成できる目標を設定し、それがクリアできればまた違う目標を――といった成功体験を積み重ねる生活を取り入れてみるのはどうでしょうか。新たな自分に出会え、仕事が楽しくなるかもしれません。

入社当時、ある先輩記者が話してくれたひと言が印象に残っています。

「わしゃ、記者の仕事は〝究極の暇人〟だと思っとる。だって人が知らないことをその人の代わりにいろんなところに行って、聞き、書いて、新聞で届けるんじゃからな」

今となってなんとなくその意味が分かってきたような気がします。一緒に“究極の暇人”、やってみませんか。

 

――その上で伺いたいのですが、福本さんが10年間も新聞記者を続けてこられたのはなぜでしょうか。

入社した当時、サッカーの世界しか知らなかった僕は周囲からなかなか認められませんでした。悔しかったです。

でも、だからこそ「やってやろう」と思ったんですよ。最初はできないことだらけでしたが、独自ネタの出稿や先輩記者がさほど触れてこなかった分野を取材するなど自分なりに頑張ったんです。そうしたら、いつの間にか「福本くん、頑張っているね」などと言われるようになりました。

自分が一度やると決めたことは、苦しいからと言って逃げずにハングリー精神を持って頑張る。負けたくない、という気持ちが根底にあったからこそ、気づけば10年間走り続けてこられたという表現が正しいかもしれません。

 

山陽新聞社について

ホームページ:https://c.sanyonews.jp/

採用情報:https://c.sanyonews.jp/employment/

 

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