【ダシマス老舗・山水荘】時代の変化に対応し続けてきた70年。女将とともに振り返る歴史

レッド

written by ダシマス編集部

創業30年以上の老舗企業に焦点を当てる本企画。持続的な成長と成功をおさめ、時代をまたぎ社会に貢献してきた歴史を紐解き、その長い期間によって培われた文化や知見から、多くの人に気づきとインスピレーションを与えることを目指しています。

本記事では、福島県福島市の土湯温泉町で1953年に旅館を創業し、2023年で70周年を迎えた水織音の宿 山水荘(さんすいそう)の専務の渡邉さんにご登場いただきます。

山水荘は創業してから、常にその時代の人々に求められるものをいち早く取り入れ、70年間経営を続けてきました。2011年に発生した東日本大震災からの復興の兆しが見え始めた矢先に、新型コロナウイルスによる影響を受けた山水荘。それでも、必要とされるものは何かを見極め行動することにより、現在では海外からの観光客も多く迎えるまでに至りました。そんな山水荘の歴史を、旅館の女将である渡邉いづみ(わたなべいづみ)さんの半生とともに振り返っていただきました。

専務取締役 渡邉 いづみ(わたなべ いづみ)さん

専務取締役 渡邉 いづみ(わたなべ いづみ)さん

1960年7月生まれ、福島県本宮市出身。地元の短期大学を卒業し、1984年に山水荘に嫁いだ。一男二女の子どもに恵まれ、現在まで山水荘の女将を務める傍ら、土湯温泉女将会の会長を務める。

執筆:山本 麻友香

執筆:山本 麻友香

元ハウスメーカー勤務の実績やブログ執筆経験を活かし、フリーランスライターとして活動中。2017年生まれの1人息子がいる母でもある。好きなことは、スポーツをすること、見ること、食べること、寝ること。

創業してから70年、困難があっても絶えず対応し続けてきた

 

――創業の経緯を教えていただけますでしょうか。

1953年(昭和28年)に、前社長が一代で山々を開拓してできたのが山水荘の始まりと聞いております。前社長は元々小さな旅館の長男で、自身で旅館を作りたいという意思があったそうです。

創業当時の山水荘は、今も見どころのひとつである日本庭園と、9室の客室を備えてスタートしました。その後、時代の流れや旅行スタイルの変化によってお客さまの求めるものが大きく変わるごとに、部屋数やパブリックスペースなどの建築や改築を重ねてまいりました。東日本大震災やコロナ禍も経験しましたが、おかげさまで2023年に70周年を迎えています。

2018年には、姉妹館としてカジュアルな新しいスタイルのホテルであるYUMORI ONSEN HOSTELという温泉ホステルをオープンしました。これは土湯温泉ホテルの館内をリノベーションしてつくったホステルです。

 

――70周年を迎えるにあたって、山水荘はリニューアルもされたということで、お客さまのご反応などはいかがですか。

リニューアルオープンしてから半年以上が経ちましたけれど(取材:2023年12月)、おかげさまで毎日満館に近い状態まで回復いたしました。インバウンド需要もあって、平日でも多くの方にお越しいただき、本当に長年の間に繰り返しリニューアルをしながらやってきて良かったなと今は実感している状況です。

お客さまの旅行スタイルや好みが変化して、付加価値への期待も非常に高くなってきている中、それにマッチしたリニューアルができたのかなと感じています。

 

――山水荘はこれまで、どのような歴史を歩んできたのでしょうか。

70年間、旅行業界に求められることを汲み取って経営を続けてきました。

印象的なことだと、前社長が金魚風呂という金魚を下に泳がせた大浴場を作ったり、外国人の宿泊客が増えると考えて、外国人の宿泊客が受け入れるために「政府登録国際観光旅館」という認定を受けたりしました。温泉に加えて家族連れが楽しめるプールがあったらいいのではと考え、25mの温水プールを建築したこともあります。

また、近くにある吾妻小富士のスカイラインが開通した際には、昼間から芸者さんを集め、館内全ての宴会場をつかっての大規模な宴会を、昼夜問わず行っていることもありましたね。長い年数のなかで部屋数も増えましたし、宴会場と大浴場は何度もリニューアルしてきました。

 

――常に変化し続けていたんですね。そんな中、もっとも困難だった時期はいつでしょうか。

やはり2011年に発生した東日本大震災のときです。とにかく大変な状況でした。

お客さまはもちろん、当時弊館と同じような規模の近くの旅館が地震の被害に遭われました。被害に遭った旅館はお客さまを受け入れられなくなってしまったため、山水荘で受け入れることにしたんです。お客さまの受け入れが終わったあとは、地震の被害からの救援・救出に来られた機動隊、自衛隊の方々の宿泊場所になりました。

隊の方々の出発に合わせて、早朝4時に起きておにぎりを何千個も作り、お弁当作りにみんなで励み、夜は限りある食材であっても温かい定食をお出しして。お帰りのときには救援・救出のために全国各地から来てくださったことへの感謝から、お見送りは旅館のみんなで行いました。隊の方々の入れ替わりも多く、毎日がその繰り返しでしたね。

 

 

――地震が発生してご自身たちも大変な中、さまざまな人たちを受け入れていたのですね。

大変な状況ではありましたが、社員の生活がかかっていたので全員雇い続けられるように精一杯やれることをやりました。

救援・救出の方々の受け入れが落ち着いたあとは、南相馬から避難してこられたお客さまを受け入れる生活の館になります。とにかく避難者の皆さまを受け入れ、次のスタートに踏み切る段階で必要なものを提供するということで、プールで物干しざおを使って洗濯物を干していただき、売店では生活用品を取り扱いました。

避難してこられた皆さんは、それぞれ事情もおありだったので最初はどうやって接すべきか迷いましたが、私たちの使命は自然に明るく接して元気を取り戻してあげることだと考え、お客さまと日々向き合うことにしたんです。

 

――話を聞くだけでも、本当に大変な状況だったと感じます。

ようやく東日本大震災の復興の兆しが見えたかなというところで、今度はコロナが流行り始めました。まともな営業ができず、3ヶ月お休みすることになったのですが、その間にお客さまから多くの問い合わせやご要望をいただきました。それで「やるしかない」と決め、営業再開に向けて動き始めたのです。

露天風呂付きの個室なら、コロナ禍でも感染を防ぎながら安心して宿泊していただけると考え、旧館部分の改築を行いました。露天風呂・半露天風呂付きの客室を15室建築し、200畳の大宴会場を全て椅子とテーブルのオープンキッチンレストランに変え、家族連れの宴会場を個室のお食事処の料亭に改築。大変なことでしたが、お客さまの声をきっかけに改革に踏み切れたと思っています。

 

何度も訪れ応援してくれるお客さまの声と真摯に向き合う

――東日本大震災、コロナ禍など、さまざまな危機を乗り越えて70年という節目をむかえられたわけですが、ここまで継続してこれた秘訣はなんでしょうか。

常に未来を見据えて、先を読みながら行動できたことが大きいと感じています。たとえば、以前は仲居がおりましたが、その役割上、変則的な勤務体系になっているため今の時代に合わないと感じていました。そこで社員性にシフトしていこうと考えたのです。

そして新卒採用に力を入れることにし、私と労務士の二人でいろんな学校をまわりました。それ以来、新卒の方も多く集まるようになり、今でも若いスタッフからの応募は一定数あります。変えていくのは大変でしたが、時代に合った対応ができたと感じています。

 

――ここ数年は特に時代の変化も激しく、先を読んで行動するというのは簡単ではなかったと思います。どのようにして見通しを立ててきたのでしょうか。

観光産業のノウハウを持っていた社長自身が先を見通す力に長けていたことが大きかったように思います。それに社長には、土湯温泉や山水荘に対する熱い想いと夢がありました。日々、そのことばかり考えていたので、旅行業界の動向を敏感に捉えていたのでしょう。それに観光が好きで仕方がない性分なので、普段からいろんな情報を集めていました。

あと、お客さまから教えていただいたことが多かったですね。中には何度も山水荘に足を運んでいただき、「客室はお客さまが買うもの。きちんと整えておかないとダメだよ」など玄関から客室にいたるまで、さまざまなご意見をいただきました。お客さまからいただいた教えは、私にとって全て宝だと感じています。心配もアドバイスもしていただき、長年お客さまに育てられてきました。こうした教えがあったからこそ、今もこうして続けられているのだと思っています。

 

――素敵なお話です。ただ、ときには過剰とも思える要求があることも少なくないと想像します。そういったときはどうされてきたのでしょうか。

最近はオンライン上の旅行代理店を通して口コミをたくさんいただくのですが、そこではお褒めのお言葉をたくさんいただく一方で、厳しいご意見をいただく場合もあります。お客さまご自身にも、いろいろな背景がありますので、全てのお客さまにご満足していただくのは本当に難しいことです。どこかでラインを引かなければなりません。

私たちは何度もお越しいただいているお客さまの声を、もっとも大事にするべきだと考えています。こうしたお客さまからのご意見に対しては徹底的に対応する。山水荘やYUMORI ONSEN HOSTELが好きで来ていただいたお客さま、楽しんでいただいているお客さまに焦点をあて、リピーターを大切にしなければいけないと考えています。こうした判断は、働いてくれている社員たちのやる気にも関係するのでとても大事なことです。

 

――社員の働きがいや満足度をあげるために、何か取り組んでいることはありますか。

一番大事にしているのは、一緒に働くもの同士のコミュニケーションですね。現在、技能実習生を5名、外国人スタッフも4名受け入れています。多様な人たちが等しく働きがいのある場所だと思っていただけるよう、食事会や懇親会などの機会をできるだけ設けるようにしています。

 

お客さまに恵まれ、育ててもらった旅館と自分

 

――そもそも渡邉さんは、どのようなきっかけで旅行業界に入られたのでしょうか。

社長との結婚がきっかけです。社長とはお見合いで出会いました。当時はお見合いや紹介が盛んで、適齢期になるとお見合い話はよくでていましたね。そのお見合いで、社長の「観光業界の仕事に一生懸命に取り組む姿勢」に惹かれたのですが、実は最初はお断りしたんです。旅館のことなど、関係する仕事をしてきたことがなかったので、私にはできないと思ったので。

でも社長がわざわざ自宅まで来て、「あなたが不安に感じることは分かります。不安なことや困難なことは私が変えていきますから、どうか一緒になってくれませんか」と言ってくれて、それで嫁ぐことを決めました。

その後、子どもにも恵まれ、私もそこで強くなったと思っています。当時仕事をしながら育児を両立するのは本当に大変でしたが、子ども第一主義でやらせていただきました。

 

――改めて振り返ってみて、この仕事をやっていて良かったなと思う瞬間はどんなときでしょうか。

子どもたちが帰ってきてくれたことが本当に嬉しかったですね。長女はYUMORI ONSEN HOSTELのマネージャーで、長男は常務を担ってくれています。私もこの仕事の大変さは分かっていましたし、自分の人生は自分の好きなように歩んでほしかったので、戻ってこなくても良いと考えていました。でも長女も長男も、東日本大震災のあと、旅館が一番大変な時期に継ぐ決意をして帰ってきてくれました。
 

――最後に、次の100周年など未来を見据えた今後の抱負を聞かせてください。

私は良いお客さまと社員に恵まれて育てられてきました。お客さまがいらっしゃらなかったら70周年を迎えるのは難しかったと感じるほどです。長い間お客さまが「本物の旅館業とはこういうものだ」ということを教えてくださったからこそ今がある。そんな山水荘を、次の世代にバトンを託していきたいと考えています。

私たちが行ってきたことは、これからの時代ではいずれ通じなくなることもあると思います。お客さまの価値観は急速に変わっていく時代ですが、引き継いでくれる人たちが働きやすい環境をつくり、気持ちよく任せていきたいですね。

 

山水荘について

山水荘:https://www.sansuiso.jp/

YUMORI ONSEN HOSTEL:https://yumori-hostel.jp/

 

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