【ダシマス老舗・第一酒造】地元第一。地域で愛されるお酒を作り続けたい
written by ダシマス編集部
創業100年以上の老舗企業に焦点を当てる本企画。持続的な成長と成功をおさめ、時代をまたぎ社会に貢献してきた歴史を紐解き、その長い期間によって培われた文化や知見から、多くの人に気づきとインスピレーションを与えることを目指しています。
350年の歴史を持つ第一酒造。「地元に愛されるお酒」を造ることを大切にし、お酒造りを行ってきました。真摯に取り組む同社のお酒は、G7の会合や高級ホテルで取り入れられるなど、国内外で高い評価を受けています。今回は代表取締役社長の島田嘉紀さんにインタビュー。経営にあたって心がけていることや、これまでの歴史で第一酒造がぶつかった壁についてお話いただきました。
代表取締役社長 島田 嘉紀さん
1965年、栃木県生まれ。1988年に慶應義塾大学・法学部法律学科を卒業し、アサヒビールに入社。1991年、第一酒造に入社した。2009年社長就任。
執筆:川又 瑛菜(えなり かんな)
フリーライター。求人広告代理店や採用担当などHR領域の経験を活かし、企業へのインタビュー記事や採用広報記事、イベントレポートを中心に執筆している。フランスでの生活を目指してフランス語を勉強中。読書と人文学が好き。
一人ひとりの頑張りによって紡がれてきた350年の歴史
▲取材はオンラインにて実施
――まず、第一酒造の創業経緯をお聞かせいただけますか。
うちが酒造りをはじめた頃、この村にいた人たちはみんな農家でした。そうした村全体の自給自足的な取り組みのなかの酒造り係が、我が家になったんです。他の家は味噌を作ったり、みりんを作ったり。役割分担をして村でいろんなものを作っていました。そこから徐々に大きくなり、江戸時代後半には江戸にお酒を出荷するように。こうして少しずつ現在の第一酒造になっていきました。
――350年の長きに渡り会社が続いてきた秘訣や要因は何だとお考えでしょうか。
それぞれのタイミングで、当時の社長や従業員たちが頑張っていたから長く続けてこれたのだと思います。10名以上いるこれまでの当主のうち、僕が会ったことのあるのは先々代と先代の二人だけ。でも、僕が会ったこともない人たちも含めたみんながこの地で頑張ってきたから今があるのではないでしょうか。
酒蔵にはさまざまなリスクがあります。たとえば朝ドラ(NHK連続テレビ小説『らんまん』/2023年4月より放送)でも取り上げられていた火落ち。こうしたトラブルの原因も現在は科学的に解明されましたが、はじめた頃はそんなことは何もわからない状態でお酒を作っていました。そんななかでも「とにかく真面目にしっかりやろう」という気持ちを持ってやってきたことが、第一酒造をここまでつないできたんだと思います。
――多くの人がつないできた第一酒造を継ぐことを、どのように考えられていましたか。
反発や疑問は特に感じることもなく、そういうものだと思っていました。周りがそう意識させていったのもあると思います。親はもちろんですが、直接的には第一酒造と関係のない周囲の人も「この子が継ぐんだ」という目で幼少期から自分を見ていたし、僕自身もそれを意識していましたね。
――では、学業を終えられた後はすぐ第一酒造で働かれたのでしょうか。
いえ、大学を出た後はお酒に関する勉強のためにアサヒビールに就職しました。アサヒビールでの勤務は3年半と長くはありませんでしたが、転勤も経験しましたし、限られた時間のなかでいろいろな経験をさせていただきました。アサヒビールでは、会社が用意してくれた機会のほかにも、偶然ではありますが、非常に貴重な経験もしたんです。
僕が入社したのは1988年で、スーパードライが発売された翌年。その年は「ドライ戦争」と呼ばれるビール業界の競争があった年だったんです。スーパードライが売れたので、翌年に競合の3社がドライビールを発売して、マスコミからも注目を集めていました。
実はスーパードライを発売する以前のアサヒビールは、新商品を発売しても、類似商品をあとから発売した競合に売上を取られてしまうことが多い状況でした。そのため「今回はどうなるのか」と注視していたんですが、最終的にアサヒのスーパードライがもっとも多く売れる結果に。急激に高まったニーズに対して生産が追いつかず、在庫切れが続く事態となりました。研修期間に飲食店への営業へ行った際にも「うちのビール使ってください」と言えない状況でした。そのため、きちんとした営業活動ができずただの御用聞きになってしまっていたんです。あんなことは数十年ビール会社にいたとしてもなかなかないでしょうし、貴重な機会でしたね。
周囲の応援のおかげで危機を乗り越えられた
――現在お酒造りに携わるなかで、大切にされていることを教えてください。
おいしいお酒を作って愛飲家の人に楽しんでいただくことです。この考え自体は創業当時からずっと受け継がれてきたもの。おいしいお酒の定義や楽しんでもらうための手段は時代によって変わってきましたし、僕の代でも変化がありました。でも、この考え方だけは変わっていません。
僕はやり方は変えていいし、むしろ積極的に変えていかなくてはいけないと考えています。特に製造方法や技術はどんどんレベルアップしていかないといけません。同じやり方を続けるのは、退化ですらあると思います。
「おいしいお酒を作ってみなさんに楽しんでもらうこと」これだけは大事にしながら、どんどん変化していきたいですね。
――時代の変化というと、島田さんが跡を継がれてからは特に激しかったのではないでしょうか。
そうですね。昔の100年間に起きたのと同じだけの変化が、今の10年で起きているというようなスピード感の違いはあります。でも、さまざまな技術が進歩しているわけですから、時代の流れがどんどん速くなるのも当然です。
それに日本酒業界は、IT業界などと比べるとすごくゆっくりにしか動いていません。当社でも広報や啓蒙活動を行っていますが、なんといっても酒蔵の肝は製造です。そしてその製造は年に一回しかできないし、原料であるお米も収穫は一年に一度だけ。そのため変革はどうしても遅くなります。
とはいえ、この30年で流通には大きな変化がありました。昔ながらの町の酒屋さんがどんどん減っていったんですね。昔は酒屋でお酒を売っていましたが、今ではスーパーやコンビニ、ドラッグストアなどの売上が中心です。それに伴って、エンドユーザーに楽しんでもらうための方法が変わってきました。
おいしいお酒を作っていればそれでよかった時代から、おいしくお酒を飲んでもらうための啓蒙活動も求められるようになったなと感じます。実際に第一酒造でも、「ひやガーデン」や「見学会」、母屋を使った「酒造茶屋」などさまざまな施策を行っています。
僕の両親が住んでいる母屋を使ったイベントなんて、社員からはきっと言い出せないので僕が企画しましたが、これからは社員発案の施策もどんどんやっていきたいですね。それが一番良いですし、そうならないといけないとも思っています。
――全国に酒蔵は多数ありますが、第一酒造の強みは何だとお考えですか。
一番の特徴は自分たちでお米を作っていることですね。これは350年ずっと続いています。
日本酒は作り方が複雑なお酒です。お米をそのままお酒にはできないため、一旦麹を作って麹の力で糖分に変えないといけません。そこから酵母の働きでアルコールに変えていきます。製造工程が複雑な分、人間が携わる要素が多いんです。製造技術よりも原料が重要なワインと正反対で、原料よりも製造技術が味に大きく影響します。
とはいえ、原料もやっぱり重要です。冒頭でお話したように、当社は酒造りからはじまったわけではなく、農家が酒造りをはじめたことで生まれた会社です。昔は酒屋が農家を始めることはできなかったので、日本でも珍しいお米から作っている酒蔵でした。現在は規制が緩和されたため、20社ほどの酒蔵が自社でお米も作っていますが、ずっと昔からお米づくりとお酒づくりの両方をやってきたことは大きな強みだと感じています。
実際にお米を作っていても、このお米がお酒になると思うとより丁寧にお米作りに取り組むようになります。そしてお酒を作る時も「あのお米がお酒になるんだ」と感じて、愛着を持つようになるんですね。すべてを自社で育てたお米で作っているわけではなく、他の農家さんの作ったお米を使わせてもらうこともありますが、自分たちでも作っているからこそ農家さんの苦労がわかります。
こうして気持ちを込めて作ったお酒が評価してもらえて、「ザ・リッツ・カールトン日光」や各国の日本大使館でも使っていただいているのは非常にうれしいですね。こうしたホテルや大使館のほか、今年のG7の男女共同参画女性活躍担当大臣会合や、2019年に行われたG20外務大臣会合でも「AWA SAKE」を乾杯酒に使っていただきました。乾杯以降はそれぞれ好きなお酒を飲みますが、乾杯酒は参加者全員に飲んでもらえるので、そこに選ばれたのはとても光栄なことです。
――350年もの歴史のなかで、会社の危機的な場面もあったのではないでしょうか。
これまでの350年の歴史のなかで危機はたくさんあったと思います。ただ、伝わっていないので、僕はここ50年程度のことしか知らないんです。その間でも何度か苦境はありました。たとえば20年ほど前には、麹室や瓶詰めラインで火事が起きて、建物ごとなくなってしまいました。とはいえ3月だったので、麹室は冬の酒造りが終わった後。次に使うまでは半年以上あったので、打撃ではあったものの不幸中の幸いでもありました。
もっと厳しかったのは、2019年の台風19号です。300m離れたところで川が氾濫して、社内にも数十センチ以上の高さの泥水が入ってきました。水は一晩ほどで引きましたが、敷地内は建物の中まで泥だらけに。
台風がやってきた10月は、まさに酒造りを始めるタイミング。台風によって、酒造りができなくなってしまいました。商品も高いところに置いていたものは無事でしたが、会社が泥だらけでそれどころではなく、出荷もできない状態だったんです。あの時は、「今年は酒造りができるのか?いや、今年どころじゃなく来年もできないかもしれない」と考えていましたし、「もしかすると一生できないのかも……」とまで思いました。
なんとか乗り越えて今も酒造りを続けられていますが、今振り返っても「もう酒造りができないかも」と不安に感じても仕方がない状況でしたね。
――その苦境をどのようにして乗り越えられたのでしょうか。
あまりの事態に打ちひしがれていた時、ボランティアの人たちが大勢駆けつけてくれたんです。彼らは泥出しを率先してやってくれました。一般的な災害復旧支援として来てくれている方もいましたが、明らかに第一酒造のために来てくれている人も多くいました。
もちろん単純な人的パワーとしても助けられましたが、ボランティアの方が第一酒造のために動いてくれているのを見て、自分が「会社を続けられるのだろうか」なんて考えている場合じゃないと思えたのが何より大きかったです。「こんなに応援してくれる人がいるんだ」と感動し、気持ちの支えになりました。
お客さんの「おいしい」が一番のやりがい
――社員の方々がやりがいを持って働くために、心がけていることや取り組みがあれば教えてください。
エンドユーザーの声を聞くことが一番やりがいにつながると考えています。
そのため、「ひやガーデン」や「酒造茶屋」では社員に当番制でスタッフを務めてもらうなど、お客さんから「ありがとう」と言ってもらえる機会を用意しています。その経験はモチベーションに大きな影響を与えているのではないでしょうか。
また、立春を迎える2月4日には、朝に絞ったお酒をお客さんに当日に飲んでもらえるよう、酒屋さんに酒蔵までお酒を取りに来てもらっています。こうした機会があることで、酒屋さんから飲む人たちがお酒に何を期待しているかを聞くことができます。仕事は大変なこともありますが、それがどんな風にユーザーに届いてどんな風に喜ばれているのかわかることで、やりがいにつながると考えます。
――今後、第一酒造をどのような企業にしていきたいですか。
地元で愛されるお酒を作り続けたいです。地元でおいしいお酒を多くの人に楽しんでもらいたい、そしてその上で、東京をはじめとする日本のほかの地域の人や海外の人にも楽しんでもらいたいです。“まずは地元”とするこのスタンスは変えたくないと考えています。
とはいえ、日本では人口減少が進んでいるので、海外での販売比率が高まるのはやむを得ません。しかし、地元の人に愛していただいたからこそ今があるので、地元でおいしいと思われることはずっと大事にしていきたいですね。
また、人口減少といっても、まだまだ佐野市や栃木県でも第一酒造のお酒を飲んだことのない人はたくさんいます。彼らにも日本酒の良さをもっと知ってもらいたいし、それを伝えることは、地元での売り上げ拡大にもつながるはず。実際にお酒の販売やイベントの開催だけに限らず、市が希望者を募っていた陸上施設のネーミングライツを取得し、「清酒開華スタジアム」と命名するなどの取り組みも行っています。市の財政協力や陸上選手たちの応援をしつつ、第一酒造を広く知ってもらうことにつながればうれしいです。
――最後に、この記事を読む方へのメッセージをお願いします。
当社の仕事は、お酒を通して多くの人に楽しんでもらう仕事です。また、実際に「おいしかった」という声をお客様からいただくことも多く、やりがいも非常に大きいです。そしてそのためにどうするかを考えて行動することがさらなる反響を呼び、さらに大きなやりがいとして返ってきます。もし入社いただけるのであれば、こうした連鎖を楽しみながら働いてもらえるとうれしいですし、興味のある方はぜひ、第一酒造を覗いてみていただけると幸いです。
第一酒造の詳細はこちらから
◆HP:https://www.sakekaika.co.jp/