「規格外の夢を創る。想像できるか?」(株)カドワキカラーワークス社長が粉体塗装にかける想い

レッド

written by 田野百萌佳

神奈川県横浜市で粉体塗装業を営む株式会社カドワキカラーワークス。ペンキではなく粉体の塗料をスプレーガンで金属のパーツに吹きかけ釜で焼き上げる手法は、ヨーロッパでは主流になっているが国内ではまだ少ない。建物の外壁から自転車など多岐にわたり、クライアントがもつ繊細なイメージを再現する「意匠性」がカドワキの強み。しかし最初は「絶対に塗装をやりたくない」と思っていたという2代目代表・門脇社長。そんな門脇社長が塗装に目覚め、失敗を経験しながら粉体塗装を誇れるようになるまでのストーリーとは。働くうえでも「取り繕わずに、”好き”に猪突猛進したい」という方必見!

門脇正樹さん

株式会社カドワキカラーワークス社長。1961年設立(有)門脇塗装工業所を父から引き継ぎ、2001年にグループ会社の(株)カドワキコーティングスを立ち上げ。2002年に(有)門脇塗装工業所をカドワキカラーワークスに社名変更。25歳の頃に読んだ矢沢栄吉激論集「成り上がり」に感銘を受け、人生のロールモデルとして今日まで会社を営む。趣味はゴルフ。毎週末ゴルフ場に出向き、社内でコンペを行うこともある。

"絶対就かせたくない”倒産寸前の父の会社を立て直し

とにかくみんな、金持ちになりたい時代だった。

工業高校を卒業し、自動車プレス会社、梱包資材会社を転々としていたある日、母から連絡が入った。
「お父さんが胃潰瘍で入院した。会社も倒産するよ。」

 

小学生の頃、夏休みには父が営む門脇塗装工業所の手伝いに来ていた。当時は5人ぐらいの会社。職人さんに混じって、生意気にも指示を出しながらバスの料金箱を塗装していた。綺麗に色が変わっていくのが楽しい反面、お客さん先に行く父や社員は、いつもペコペコ謝っている。「すいません、すいません」と。「なんで自社でできない仕事をうちがやってるのに、お客さんはこんなえばってるんだ?」幼いながらに、塗装という業種の地位の低さを感じた。父は常々言っていた、「子供には絶対就かせたくない、こんな仕事」と。いつしか自分でも「塗装だけはやりたくない」と思うようになった。だけど、いざ倒産すると言われると「俺が行って立て直してやるよ」と口走っている自分がいた。

弱冠二十歳。父の猛反対を押し切り、門脇塗装工業所に入社。

 

初めて読んだ本”成り上がり”。塗装で生きる覚悟

小学生の頃とは違い、仕事となると簡単には塗らせてもらえない。真夏の営業時間後、クーラーもない工場で埃が入らないようパンツ一丁で塗装の特訓。バブルの気配が残る90年代初頭、同世代との会話は決まって「お前今、月いくらもらってる?」金なんて増えていくものだという風潮の中、自分にはその兆しを感じられずにいた。


そんな中、25歳で人生を変える出会いが。知り合いにチケットを譲ってもらい、矢沢永吉の横浜アリーナ公演へ。人生初のコンサートで目にしたのは、大勢のファンを熱狂させるスター「永ちゃん」の姿。かっこよかった。「どんな人なんだろう?」どんどん魅了され、初めて読み切った本が『矢沢永吉激論集 成り上がり』こんな馬鹿だった永ちゃんがスターになれるなら、自分もなれるかもしれない。
「20代頑張ってない奴は、パスポートもらえないんだよ。」
はっとした。20代、がむしゃらに頑張らなきゃな。それから毎週日曜日は仕事後PM3:00から健康ランドでサウナと風呂に入って、ビール片手にビデオ版「成り上がり」を観ながら「絶対金持ちなるぞ」っていうのがルーティン。休みもなかったけど、大変ってことはなく、面白かった。


でも、やっぱり塗装では食べていけないと思っていた。その頃の自分の愛読書、月に1回コンビニに並ぶ「一攫千金」。「こんなことして僕いくらもらってます」という勝ち上がった人の歴史みたいな、成り上がり方が載った本。その本に出ていた「第1回フランチャイズ見本市を仙台で開催します」という告知。これを見に行けば、何屋でもいいから稼げるかなと思って親に言うと、両親とも「いいじゃないか、行った方がいい、やった方がいいよ」と乗り気。家族旅行も兼ねて親子4人で仙台へ。「どんな仕事が見つかるかね」なんつって当日に会場行ったら、まさかの中止。
「これはもう、本気で塗装をやれってことなのかな。」
帰ってきて、塗装で生きていく覚悟を決めた。

 

人のハートに届く、粉体塗装との出会い

1年後、オーストリアの粉体塗料タイガードライラックと出会う。金属の板に粉状の塗料を吹きかけると、絶妙な色味や質感が表現されていく。
「こんな色数と意匠性のある塗装があるの!?もはやデザインだ」
おまけに、従来の有機溶剤に比べ耐久性に優れ、環境や人体にやさしい粉体塗装。
「これを日本に広めれば、塗装のイメージが変わる!」どうせやるなら、地位が低く3Kと言われる塗装業界のイメージを変えようと決心した。

 

そして「金持ちになりたい」一心だった自分にとって、塗装が単なる金儲けの手法ではなくなったきっかけ。
ある日、「車椅子、塗れますか?」と問い合わせが来た。届いたのは、子ども用の車椅子の部品。事情は知らなかったが、その部品をピンクに塗装した。その後、そのお問い合わせをくれた方のお子さんが娘の同級生だったと知った。幼稚園に行きたがらなかった彼女が、車椅子をピンクに塗装したことをきっかけに幼稚園に通うようになったそうだ。

地位が低いと思っていた塗装は、3Kと言われ遠ざかられる塗装は、こんなに人のハートに届くんだと気づいた。

 

原点は”こんちくしょう” 発想は失敗から生まれる

今思うと若気の至りだが、粉体塗装を知った次の日から、溶剤塗装の仕事を全て断った。その年のお客様先の総会。トイレの個室で用を足している時に聞こえた会話。「門脇の息子、無茶して粉体塗装やるとか言って馬鹿だよな。親父がかわいそうだよ。」
こんちくしょう。見てろよ。この経験が、絶対に塗装で成功するという気持ちを大きくした。


同時に、BtoBだけでは仕事が決まらない状況から自転車塗装の需要を見出し、イベントに自転車の粉体塗装で出展。
すると予想以上の大反響。注文が殺到。「これはいけるぞ!」意気揚々と自転車のパイプに塗料で色をつけ、乾燥炉に入れていく。しかし、焼き上がるころに炉を開けると、そこにはドロドロに溶けた自転車の姿が...。でも「なんかいいじゃん」と。グレーにするつもりで黒と白の塗料を混ぜたのだが、うまく混ざらず前の色が付着しているのがむしろいい具合で。「色を変えて再現してみよう」と自動車のカスタム塗装「Ki color」の発案につながった。
不良の連続でなかなか機動にのらない粉体塗装、リーマンショックでの4人リストラ、震災時の売上低下...落ち込む暇もなく、なんとかするしかなかった。

うまくいかない時こそ燃える。それはきっと、子どもの頃から変わらない。小学校で野球チームのキャプテンだった俺は、中学でも野球部に入部。しかし入学して間も無く、家の都合で転校することに。転校先の野球部で「1年からレギュラー目指します」と先輩たちの前で自己紹介。すると「生意気だ」と虐めのようなものを受けるようになった。「このままだと中学生活がやばい、なんとか一発逆転しないと」力をつけるためボクシングを始め、のめり込んでいった。同時に先輩たちも手を出されなくなった。今の自分を形成しているもの、そのひとつに子どものころからの「こんちくしょう」の精神がある。

 

創り手の考えを読み取り、再現する。没頭できるか?

「こんなに人のハートに届く塗装を、なくしちゃだめだ!」
粉体塗装が、金儲けの手段ではなく、私たちの存在価値に変わった。
だからこそ、高齢化が進み労働人口が減る塗装業界を放って置けない。変化を起こさない既存の塗装組合に任せておけない。門脇塗装工業所からカドワキコーティング、カドワキカラーワークスと事業を広げ、車椅子、自転車、さらには建築業界へ参入。SDGsが広まり、ここ1,2年でやっと粉体塗装が広まってきた。
私たちの強みは「意匠性」だ。どれだけ設計者や依頼者、創り手の考えを読み取れるか。従来の塗装業者は、ものづくりの1番最後の工程にしか関わらない。でも、見る人にとっては見た目が全てだ。その見た目のために、設計段階から意図を汲み取り、最高のサンプルを出す。例えば、"雨上がりのコンクリートに溜まった水溜まりのような"、"木の皮を剥いだような"、"貝殻の裏側のような"...実現できるかどうかは置いておいて、実物を見て、再現をする。そうやって仕事を決めてきた。
今では、塗装が好きで、塗装で新しいことに挑戦していきたいと心から思える。
だからこそ妥協せず良いものを作り、塗装業界の、塗装職人のイメージを変えるチームを作っていきたい。
「好き」に没頭し、夢を叶える企業。これが、KADOWAKIが目指すあり方だ。好きなことやっていこう!
 

カドワキカラーワークス について

ホームページ:https://www.kadowakicoating.com/colorworks

採用ページ :

https://kadowaki.hr-hackerplus.com/

採用情報  :

https://hr-hacker.com/kadowaki

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  • hatena
株式会社 カドワキカラーワークス